タイポグラフィによる自己実現

トピック

Type& 2022 Day 2 Session 1 - Monotype による大手企業のコーポレートフォント制作事例を交えながら、タイポグラフィや、既成フォント、企業独自のフォント制作に至るまでを解説。

Type& 2022 Day 2、Session 1 は、Monotype クリイティブタイプディレクター、Charles Nix(チャールズ・ニックス)プレゼンテーションです。Nixは、ニューヨークを中心に活躍するクリエイティブタイプディレクター、タイポグラファーで、タイポグラフィ業界の発展を目指す国際団体、Type Directors Club の名誉会長でもあります。このセッションでは、既存のフォントを使用することから、企業が独自のフォントを持つことまでを段階的に分析しながら、Monotype が近年手掛けた大手企業のコーポレートフォントの実例を紹介しました。

メッセージを文字で伝えることについて

Charles Nix は、「書体とは著者の考えをエンコード(符号化)し、それをデコード(解読)して受け取る役割と持つ」と述べています。その例として、歴史学者、地理学者のヘロドトスについて解説。2500年前にヘロドトスの思想が文字に書き起こされたことにより、現在でもその思想を書籍で読むことができると説明しました。つまり、本を開けば、2500年前のメッセージを解読できるということです。

昔は印刷して本の形でメッセージを伝えていましたが、今では数百マイルの空間を越えて、携帯電話で数秒でメッセージの伝達が可能になりました。現在では、スマートフォンの中で組版、印刷、校正編集、製本、翻訳、輸送のすべてが行われているのです。スマートフォンが組版職人や印刷機の役割を果たし、誰もがタイポグラファーになり得るわけです。人間には互いの考えをやりとりして交流したいという根源的な欲求があり、スマートフォンはその欲求に瞬時に応えることができると Nix は説明します。

人間の欲求の段階を表したピラミッド図

人間の欲求の段階を表したピラミッド図

人間の根源的な欲求について、米国の心理学者マズローが構築したモデル図をもとに解説。(ピラミッドの下から上へ次のような段階に分類)

  1. Physiological(生理的欲求)
  2. Security(安全への欲求)
  3. Love and belonging(愛と帰属への欲求)
  4. Esteem(尊敬への欲求)
  5. Self-actualization(自己実現への欲求)

食欲など生存に必要な「生理的欲求(1)」がある程度満たされると、より高度な「安全への欲求(2)」を持ち始めます。その次の「愛と帰属(3)」は、付き合いや友情、所属、団体との関係など、社会的な欲求や愛を受け取る力。さらに次の段階では、自尊心や他者からの尊敬、達成感や尊厳、主体性など「尊敬への欲求(4)」を求めます。そして最後は、自分の可能性を最大限生かし、創造力を働かせ、他者の向上を助ける「自己実現への欲求(5)」です。

デザインをする上で、この人間の欲求を理解する必要があると Nix は述べます。デザイナーやタイポグラファーは顧客の欲求に共感し、自身の過去と他者の現在の体験を結びつける力が必要だと言います。

タイポグラフィ的欲求

タイポグラフィ的欲求

「人間の根源的な欲求」を説明した後、同じピラミッド図を用いて「タイポグラフィ的欲求」を解説(ピラミッドの下から上へ次のような段階に分類)。

  1. Font functionality(書体の機能性)
  2. Font security(書体の安全性)
  3. Typographic Love and belonging(タイポグラフィ的帰属)
  4. Typographic esteem(タイポグラフィ的差別化)
  5. Typographic actualization(タイポグラフィ的自己実現)

一番下のレベルは「書体の機能性(1)」。「伝える」という文字の機能が重要視されます。その次は「書体の安全性(2)」。正しい許諾を得てライセンスされた書体を使うことが重要になります。その先は、書体の様々な違いを理解し、使いこなせる段階。タイポグラフィについて語り合える仲間を見つけることによって、そのコミュニティに帰属する喜びを見出し、「タイポグラフィ的帰属(3)」へと移行します。そして、その先にあるのは、「タイポグラフィ的差別化欲求(4)」。「私は他と違う。既存の書体には表現できない素質がある」という宣言です。

ピラミッド図の一番上にあるのが「タイポグラフィ的自己実現(5)」で、他者承認と自己承認の2種類があります。タイポグラフィが自分のメッセージを代弁してくれると感じ、それが相手にも伝わり、理解されていることを実感できる段階です。

タイポグラフィを尊重することで生まれるのは、グラフィックデザインの持つ力や作品が完成するまでの奥深いプロセスへの理解、言語やメッセージのスタイルの重要性の理解。そして、デザインの影響力を最大限に発揮するには、発信者と受信者のコミュニケーションに合わせて独自に仕立てるのが最適と Nix は言います。カスタム書体を作ることもこの段階に相当します。

Monotype で手掛けた事例紹介

カスタム書体の事例として、Monotype で手掛けた2つの事例を紹介しました。

Duolingo

言語学習アプリ Duolingo の事例です。Duolingo は言語教育のゴールに対し、1. 教育をパーソナライズする、2. 広くアクセスできるようにする、3. 楽しく学べるようにする、という競合他社とは違うアプローチをしています。こうした特徴を反映して、Duolingo の声を表現したカスタム書体を制作。タイポグラフィの重要性に気づくきっかけになり、競合他社と差別化しました。Duolingo は自社の価値を知り、ブランドに対する誇りを持っており、カスタム書体はこのブランドの価値をさらに高めています。

M&M’s

ブランディングエージェンシー JKR と M&M’s の書体を制作。書体の制作は JKR のチームによるリブランディング計画の中核でした。書体は、ストーリーを視覚的に語る上で大きな役割を持ち、活気を取り戻したブランドに唯一無二の声を与えました。

書体によるブランディング

書体とブランディングの目的、ブランドが存在する意味は、みんなが帰属意識を持てるような、よりインクルーシブな世界を作ることだとNix は説明します。インクルーシブな世界を目指すことは、マズローのピラミッド図の頂点に相当します。これはタイポグラフィの枠を超えたタイポグラフィによる自己実現で、より大きな目標を達成することができるのです。

タイポグラフィ的自己実現とは、自分の目的を信じて行動することです。それはタイポグラファーの世代間をつなぎ、タイポグラフィを教え、よりよい未来を創造することでもあります。タイポグラフィは新しいデザインについての会話を生み、タイポグラフィが私たちを上へと押し上げることで、コミュニケーションは活性化され、文化を発展させる身近なツールとなります。私たちにとってタイポグラフィはなくてはならない大切な存在である、とNix は締め括りました。

Q & A 質疑応答

ピラミッドで表されているヒエラルキーについて、ある段階から次の段階への移行は自然に行われているのでしょうか? または、何らかの具体的な行動や活動により行われるのでしょうか?

Nix:マズローによれば、ある段階の欲求がほぼ満たされたことがきっかけとなり、次の段階へ移行するそうです。ブランドや企業、個人がタイポグラフィの機能的役割を達成すると、次の段階へ移行します。例えば、ライセンスがきっかけの場合もあれば、違法コピーのフォントを使っていたことによる影響や、タイポグラフィに関する記事を見かけて気づくこともあるでしょう。コンプライアンスのチェック中に気づいたり、読み込みの遅いウェブページやテキストの修正作業中にライセンスの重要性に気づいたりすることもあります。すべての欲求を満たすことは次のレベルへと進む一つの方法ですが、これで欲求が消えるわけではありません。

ヒエラルキーの2(Security)から3(Love and Belonging)は大きなジャンプだと思いますが、どのようなファクターにより移行するのでしょうか?

Nix:この大きなジャンプをする要因はきっと数十はあるでしょう。タイポグラフィがブランドを統一する大きな力となり、内部・外部の両方の視点からブランドの価値を高めることや投資に対して大きな利益を得られることに気づくことも要因の一つでしょう。タイポグラフィへの投資はブランドの価値を高め、利益につながります。タイポグラフィの基本を理解する社員が組織を動かすこともあります。
あるいは、利益の追求の結果ということもあるでしょう。価値を理解した上で書体を購入したり、書体の持つ効果に気づいたり、興味を持ったり、尊重したりします。書体を購入するからには何かが得られるに違いないと考え、その何かを好奇心旺盛な人々は知りたくなります。

Duolingo 以外にこれまで携わった事例を教えてください。また、その中でも特に印象に残ったプロジェクトはありますか?

Nix:Monotype が最近手掛けた配送会社 Evri とのプロジェクトもその一つです。バイタリティがあり、いろんな顔つきを持つロゴは顧客やサービスの多様性を表しています。Evri はただの企業名ではなく、すべての顧客や場所、お届け物に対するブランドの声を表現しているのです。

サウスウェスト航空もタイポグラフィを通じてブランドの声を表現しています。サウスウェスト航空の使命は「人生に大切なものと人をつなげる」、そしてビジョンは「世界一効率的で、収益性が高く、愛される航空会社になること」です。これらはブランドのタイポグラフィや色味、視覚的言語に反映されていて、フレンドリーで柔らかく、スマートな印象を与えています。

小林章から一言

Nix の言うピラミッドの頂点、タイポグラフィ的自己実現というのは日本ではType&の1日目で紹介した2つの事例のことだと思いました。ピラミッドの頂点に到達する企業が日本でも増えているというのは心強いと思います。他社とは違う独自の声を持つという差別化ができるだけではなくて、社員みんながブランドに誇りを持つことができる、書体がブランドを作る役割を持っている、そんなことを知っている方たちです。1日目にご登壇いただいたブリヂストンの酒本さんや、いすゞ自動車の杉浦さんのように、書体の価値がわかって、企業の自己実現に向けて引っ張ってくれる人が日本でも出てくるのではないかと思います。